75日の入院生活


こうくんは在胎28週1216gの極小未熟児だった。

平成8年2月3日、急に陣痛がきて、かかりつけの個人病院で生まれ、

すぐに救急車でNICU(新生児集中治療室)のある遠くの病院へ運ばれた。

【母のつぶやき〈1〉ひじきの五目煮.・参照】

個人病院に残された母は丸一日メソメソ泣いていたのだが、泣くとその分

水分が出て、母乳の量が減るというのを何かの本で読んだのを思い出し、

泣くのはやめにして搾乳に励む事にした。

病院でカネソンの搾乳器と母乳バッグを購入し、一日8回せっせと搾った。

夜、仕事を終えた父が冷凍母乳を1時間半かけてこうくんのいる病院まで

運んでくれた。


5日めに退院し初めてこうくんに会った時、こうくんはウォーマーという小さな

箱の上に寝ていて、体にはたくさんのコードや点滴の管がついていた。

コードの先には色々な機械やモニターがあっていやな音を立てていた。

口に取り付けられた人工呼吸器のせいで絶えず胸が膨らんだり縮んだりしていた。

鼻から胃に通された栄養チューブ、これが唯一こうくんと母をつないでいた。

未熟児は保育器に入るものだと思っていたので何だか妙な気がしたのだが、

「この方が緊急の時処置がし易いのよ」と言う看護婦さんの言葉に戦りつした。

NICUの中は保育器と同じ環境になっているので、呼吸器を付けている間は

保育器に入っていなくても問題はないらしかった。

この時のこうくんは新生児じゃなくて胎児だった。


母乳は3日めから3ccずつのスタートで、9日めには18ccまで増えたのに、

分泌物が多いという理由で絶食となり、

2日後に又3ccから始めるという具合だった。

母は一日約50ccずつ8回の搾乳をしていたので、

毎日400cc分の母乳を届けていた。

なのに、この時期その母乳はほとんどこうくんの胃には入っていなかった。

空しかったけれど、搾らなければすぐに母乳は止まってしまう。

抵抗力のない未熟児には母乳を与えるのが一番安全だと聞いていたので、

こうくんが退院するまでとにかく搾り続けなければいけないと思っていた。

(注・病院では未熟児用に蛋白質を消化しやすくしたミルクも使っていたので

母乳でなければいけないということはない)

こうくんの飲む母乳の量はなかなか増えなかったけれど、2週間後にはあの

苦しそうだった人工呼吸器がとれて保育器に移り初めて『触れる』事を許された。

保育器の側面の穴から手を入れての握手だった。

体重が元の1200g台に戻ったのは生後26日めで、この頃からコードや管が

一つずつ外れていき、危険な状態からは脱した様だった。

母の体調も良くなってきた頃、ようやくバボー(当時1歳7ヶ月)を

家庭福祉員に預けて平日もこうくんに会いに行けるようになった。

この頃のこうくんは会う度に肌の色が良くなり「新生児」に近付いている感じがした。

最後まで残っていた栄養チューブが抜けて保育器からコットの部屋に移ったのは

生後57日めの3月31日。

実は、この日まで父母はこうくんの写真を撮っていなかった。

助産婦をしていた姉に「毎日会えない分、写真でも撮ってそれを毎日見てなきゃ

だめだよ」とアドバイスされていたのだが、どうしても撮れなかった。

あまりにも痛々しくてはかなくて、カメラなんか向けたら一瞬で

昇天してしまいそうだった。

だから、初の写真撮影は、初めて抱っこすることができた57日めのこの日。

体重は2230gに増え、母乳を一日に50ccずつ8回飲めるようになっていた。

初めて直接授乳もしたけれど、まだ上手には吸えなかったので、

面会時に授乳の練習をさせてもらうことにした。

この日ようやく こうくんは「新生児」の仲間入りをした。

生後57日目
初めて母に抱っこされた
コットに移りようやく新生児
の仲間入り

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